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聞信寺 福岡県八女郡広川 真宗大谷派東本願寺
聞信寺 福岡県八女郡広川 真宗大谷派東本願寺

 聞信寺由来 

聞信寺の起こりについては、『寛文十年・久留米藩寺院開基』(1670年)に「当寺開元、大永元年(1521年)、上妻郡甘木村に善了と申す住持、少菴を造立つかまつり候」と記されています。

しかし、もう一つの説として、嘉吉三年(1443年)に野中八郎善晴(よしはる)が草庵を結んだことを始まりとする伝承もあります。ここでは、歴史と伝説が交錯する野中八郎善晴の物語、そして聞信寺に伝わる「猿影名号(さるかげみょうごう)」についてご紹介します。

聞信寺

​南北朝の動乱と野中八郎善晴

南北朝合一(1391年)の後も、九州では南朝勢力の影響が強く残っていました。将軍・足利義持は、河内国狭山(かわちのくにさやま・現在の大阪狭山市)の城主・野中八郎善晴に南朝残党討伐を命じます。

八郎善晴は、五百の兵を率いて応永三(1396)年二月二十七日に筑前国博多へ出陣。三月下旬には博多港に上陸し、長者が原(現・福岡市博多区雑餉隈)で二千の大軍を擁する菊池軍と激突します。

しかし、草原での待ち伏せに遭い、瞬く間に兵の半数を失う大敗を喫しました。敗因は、地理不案内と準備不足であったと伝えられます。

敗走を重ねた野中軍は、大宰府の宝満山まで逃げのびた時には、わずか数十名に減っていました。
「武運尽きたり。我らもこれまでか。各々、潔く果てよ。」
八郎善晴が短剣を抜き、腹に突き立てようとしたその時、唯一の侍大将であった陶之進が止めます。

「殿、死ぬはいつでも叶いましょう。ここは生き延びて再起を期すべきです。父はかつて足利尊氏公に仕え、戦の折に筑後・甘木の里に立ち寄ったことがございます。そこは山奥の閑静な谷あいで、隠れ住むには格好の地。どうか殿は孫右衛門と共に身を隠されよ。我らは河内に戻る者と、殿を追う者に分かれて動きます。」


甘木村でのかくまいと「猿」の因縁

当時の甘木村は、十数戸ほどの静かな山里。里長は正直な人柄で、二人を快く匿いました。十三河原に建つ小屋を住まいとして提供し、「菊池兵もここまでは追って来ますまい」と生活の糧も世話したといいます。

ある日、赤藪山(標高485メートル)で狩りをしていた八郎善晴と孫右衛門の前に、一匹の大きな猿が現れました。
「獲物だ!」八郎は弓を構えますが、よく見ると猿は身重の雌猿。
「お殿さま、あれは子を宿した雌猿です。無益な殺生はおやめくだされ。」孫右衛門が制止しますが、八郎は耳を貸さず矢を放ち、猿は悲鳴を上げて倒れました。孫右衛門は、子を庇うように倒れた猿の姿を見て涙し、八郎もさすがに気がとがめ、その猿を獲物として持ち帰ろうとはしませんでした。​

病と「猿影名号」の出現

その晩、八郎善晴は腹痛と高熱に襲われ、食べた物を吐き出し、病に伏します。薬師も手立てがなく、「これは猿の祟りに違いない」と孫右衛門は赤藪山に登り、猿の亡骸を懇ろに葬りました。

それでも病状は悪化し、痩せ細るばかり。孫右衛門は再び山頂に登り、空に向かって叫びます。
「猿殿、どうか殿のお命をお救いくだされ。我が身を代わりに捧げまする!」

その夜、八郎は夢を見ます。紫雲に乗った白衣の聖僧が現れ、脇には先日射た猿が赤子を抱えて立っています。

「下々の手本となるべき大名が、この世に生を受けようとする命までも断った罪は重い。しかし、この名号を一心に念ずれば、病は癒えるであろう。」
八郎が目を覚ますと枕元には確かに一巻の掛け軸があり、そこには「南無阿弥陀仏」の六字の名号が記されていました。


聞信寺開創と「猿影名号」

やがて従者らが合流し、主従はこの名号に向かって昼夜念仏を称え続けます。七日目の朝、八郎善晴の熱はすっと下がり、涙の再会を果たしました。

「本当に申し訳ないことをした…。」
八郎善晴は雌猿を殺したことを深く悔い、その日のうちに剃髪して、墨染めの法衣に身を包み僧形となり、「善了」と名を改めます。従者たちも共に仏門に入り、庵を結びました。庵の名は呼猿山聞信寺。以後、彼らは山を拓き、野を耕し、穀物と野菜を育て、生涯にわたり生き物の命を奪うことはなかったと伝えられます。

不思議なことに、その名号は、よく見れば猿の姿に似ており、人々はいつしかこれを「猿影名号(さるかげみょうごう)」と呼ぶようになりました。
これこそが、今日に続く聞信寺の起こりであり、「呼猿山」という山号の由来です。この猿影名号は今なお寺宝として大切に伝えられています。

聞信寺
聞信寺

​聞信寺近くの広川ダムそばにある野中八郎善晴の墓

参考文献:『広川町の郷土史』『筑紫次郎の伝説紀行』 『広川町公式サイト「野中八郎と猿影の名号」』

本稿の作成にあたり、福岡県地方史研究連絡協議会会長であり、福岡県文化財保護指導委員でもある佐々木四十臣氏のご監修とご助言を賜りました。 佐々木氏の豊富な郷土史の知識と的確なご指摘により、歴史的背景の整合性を確認しながら、より深みのある内容に仕上げることができました。ここに深く感謝申し上げます。

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